【立ち読み的書籍紹介】坂本図書

      2024/03/08

かつて『婦人画報』に連載されていた「坂本図書」がまとめられた書籍『坂本図書』が届いたので、立ち読み的にさわりを紹介してみました。

コメント

人力飛行機さんからのコメント。

紹介されている本の中で坂本教授がジャック・デリダをあげているのを見て、まあ考え込んでしまう。デリダと言うとちょっと人文関係の本を齧った人とか「デリダ」と聞くと感心したり、することが多いと思うんですよ。意外とああいう人文科学の分野。フランス現代思想とか。そういう名前を出すととたんに「いやあ、凄いですね。アレ読んでるとは」みたいになってしまう。問題は何をどう汲み取ったかなんですけど。そういうことは抜けたまんま「いやあ凄いですねえ」みたいな話になる。ことが多いと思います。私の親しい人にも「デリダを読んでいるんで」その先は言わない人とか(笑)。その先が一番問題なんですよ実は。しかしそこは何故か言わない。いわばデリダと言う名前が一種の完全なる権威として箔として使用されている。

これって意外と色んな分野で起こることなんです。名前だけ一種の権威として使用されている。何でもいいんです。「私は黒澤明の映画は随分と見ましたねえ。はい。全部映画館で。DVDでは視たことありません。」「ドルフィーはLPで随分と聴きましたね。CDでは聴いてません。」黒澤明を映画館で見ていたこと、ドルフィーをLPレコードで聴いたとか言われると受け手がまあ権威として受け取ってしまうのが大きいんですかね。まあ語り手も受け手も権威としてこういう話を流通させてしまう。こういう感じの会話ってでも今でも流通してるんじゃないかって思うんですよね。色んな場所で。何をどう受け取ったかじゃなくて、ただ名称や場所やが権威として流通している。でそれ以外の意味って実はない。考えてみると。

もしかしたらジャズっていう名称もまた同じで、権威として流通してしまう例って割合あるんじゃないかって思うんですよね。「趣味はジャズです。はい。ビーバップですね。それ以外は認めません」とか言う人がいたら、なんか凄いでしょ?で、どうしてかどこが「ビーバップだけしか認められないか」はそっちのけで、ただ「凄い」というイメージが流通する。これってジャズ関係の界隈またはクラシックでもそうかもしれない。でよく発生する関係性だと思うんです。で、ジャズをめぐる日本人の手つきも歴史的に権威主義だし。前にも書きましたけど、海外のTV番組sound of jazzが日本で放映されると「ジャズの巨人たち」になる。番組は色んな向こうのその時代の著名なミュージシャンが和気藹々と楽し気に音楽してるだけの番組なんだけど。邦題が全然和気藹々としていない(笑)。もう最初から祭壇に祀ってる。

最初のジャック・デリダに戻ると、デリダって人が何を言ってたかって意外と知られていないでしょう。名前が先行。ただ「凄い。」で読んでいる人もまた読んでることが「凄い。」(笑)。デリダってフロイトやハイデッガーの言ってる、内的な経歴の重要性。個人史。そういうことを物凄く過小評価したと思うんですよ。決定的な始まり。いつか種子のように埋まって生長し、芽生えていくもの。そういう心。気づいたときにはもう遅い。出来上がって終わってる。そういうものって人間にはあると思うんですが。そういう変更し難い記憶・起源とか、否定したと思うんですよね。デリダだけじゃない。フランス現代思想によれば、人格とか個人とか元々多様なる力の交叉によって形成される。多様なる力の交叉する場が個人。表層と深層の差を帳消しにし、それを差異ではなく差延としたわけでしょう。それは面白いけどあまりにun-real非現実だと思います。そういう人間観だと人生って曲芸と似てくる。どうとでも飛べる。動ける。そういう悪影響があったのではと思います。坂本さんは何を読み取ったんでしょうねえ(笑)。

あと気になったのが、主さんの本を持つ手のお肌が妙に荒れて見えたんですけど。大丈夫ですかね。声は若いけど「僕もおっさんです」て仰ってたので。お体には気を付けて末永く「ジャズな話」続けて欲しいと思います。

『坂本図書』で、教授(坂本龍一氏)は、こう述べています。
「もともと僕は、現代フランス哲学のミーハーなファンで、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズなどをぱらぱらと読んでいた。少し下の世代で“脱構築”で有名になったジャック・デリダがいる。この哲学者のことも、70年代から興味をもち始めていたのだが、文章が難解でよくわからない。何度も挑戦しつつ、長い時間が経ってしまった。そんな僕に、2001年、アメリカの女性監督によるドキュメンタリー映画『デリダ』の音楽の依頼が来た。少しでも彼の哲学を理解しようと努力はしたものの、その時も深くはわからなかった。あのとき、デリダは僕の音楽を聴いてくれたのだろうか。」

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『デリダ』の映画は観ていませんが、サントラは聴いています。
一聴、難解に感じましたが、晩年の『async』にも通じるアンビエント的な心地よさと、表面的な心地よさでは終わらない内面の奥深くにまで浸透してくる静かな攻撃性のようなものとでもいうのかな?聴いているうちに中毒的に没入していく何やら音の引力のようなものが感じられて、たまにですが、これを聴くときは、結局最後まで聞きいってしまうことが多いですね。
この没入感は、後期コルトレーンとはまったく違う(笑)。
まあECM好きな人だったらハマる人も少なくないのではないのかな、と。

>本を持つ手のお肌が妙に荒れて見えたんですけど。大丈夫ですかね。
手の荒れは、そうなんですよ、苦労の多い人生ですから(苦笑)。
先日、知り合いのエステティシャンのアドバイスで、ハンドクリームをマメに塗ることにしました(笑)。

人力飛行機さんからの返信。

返信ありがとうございます。改めてジャック・デリダのその映画のことを検索してみたらば色々また分かってきました。映画『デリダ』の監督は二人いて、一人がKirby Dickというアメリカ人男性。美術やデザインを専攻した方。もう一人がAmy Zieringという女性で。アメリカ、マサチューセッツ州アマースト大学でデリダから学んでいたらしい。で、この女性は第二次大戦中にナチスによるユダヤ人殲滅計画によって強制収容所に送られたSigi Zieringの子供であった。Sigi Zieringの一家はユダヤ人であり、Sigi Zieringの父親は戦争中イギリスに逃れたが母親と自分を含む二人の子供はドイツに残り、現ラトビア共和国リガ強制収容所に送られた。そのとき一緒にいた1`000人のユダヤ人のうち、生き残ったのはその3人含む20人だと後に分かった。収容所を転々と変わるなかで奴隷的な労働を強制されたが、1945年、スウェーデンの赤十字によって救出された。で戦後にSigi Zieringは劇を著した。The Judgment of Herbert Bierhoffという演劇で、戦争中に或るユダヤ人家族の家長が、娘がナチスに連行されると知って、連行される前に娘を毒殺する。それは正しかったのかを問う演劇だった。そういう人の娘がAmy Ziering。

で、ジャック・デリダもまたアルジェリア出身のユダヤ系フランス人。そういう縁。Amy Zieringはデリダの教え子であり、かつユダヤ人の歴史を共有しているという共通認識で親しくなったのかもしれない。デリダの講演「差延」とかインタビュー読むと、そういうまあ境遇もあるかもしれませんけどどっか戦争中ナチスであったハイデッガーの思想をおちょくってる気配がする。故意に怒らせたがってるみたいな。で読者を幻惑させたがってる。レトリックが巧みなので幻惑される。レトリックはたしかに凄いですから。諸国語を操るし。しかし先に書いてるように、言ってることは人間の現実に照らし合わせればun-realだと思います。

だけど、デリダとかユダヤ系の人がそういうことをやりだす。ユダヤ系で結託して。は、まあ分からないでもないんですね。動機としてはっていう感じですね。坂本さんはどういう気持ちでアレを読んでたんだろうって思いましたが、主さんのコメント読んでて、なるほどね。フランス現代思想といっても深入りではなくてパラパラという。実はよく分からなかった。デリダのあの辺の言説って問題というかユダヤ系からの今から思えば嫌がらせの一種だったようなね。結局はあまり意味のない話で。絢爛たるレトリックと語学で書きまくって。わざわざそれを大舞台で講演する。難しすぎてリアルタイムでは誰も判読できない。それで大評判で日本にも輸出されて。フランス現代思想の一断面。

あと映画『デリダ』の音楽を検索して聴いてみましたが。たしかに音楽という感じではない。自然の醸す物-空気-振動を狙ったんですかね。それは感じました。分からないなりに(笑)。

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