割れた鏡 または化石の鳥/吉沢元治

   

ベース一台で、ここまで色々と

音のビックリ箱です。

すべてウッドベース一台による即興演奏ですが、ベース一台でこんなに色々な音を出せるんだ、こんなに様々なアプローチが出来るんだということに、まずビックリさせられます。

なんだか、ウッドベースによる“音の展覧会”を鑑賞しているようです。

《しゃっくり》って曲があるんですけど、これなんてまさにウッドベースによるしゃっくりです。タイトルのまんまです。

音のインパクトも凄いです。
弦をはじく時のアタックがとても強いのです。
“ボン!”ではなくて“ガシッ!”なのです。
間違っても、ロカビリー・ベースの“バツン!”じゃありません。

ボクもウッドベースをかじっていますが、中々このような“ガシッ!”は出せません。こういう音を出せればどんなにいいだろうと思います。

もちろんすべての音がそういうわけじゃないです。
曲によって、かなりデリケートにニュアンスを使い分けています。
ソフトなゴムまりのように弾む音もあったりと。
力強いけど、同時にとても繊細な即興演奏だと思います。

アルコの音も独特です。
神経を逆撫でする一歩手前のアグレッシブな音色です。
音色そのものが、なにか切々とこちらの内部に訴えかけてくるような気がするのです。内臓の細胞がザワザワとざわめきます。

曇天の空の下、ちょっとシュールで不思議な時間を体験出来るアルバムが、吉沢元治の『割れた鏡 または化石の鳥』なのです。

間章氏や清水俊彦氏のように屈強な“フリージャズ・ライター”のように難解な文章を書けないボクなので、以上のように子供のような稚拙な文章になってしまいました。

巷に出回っているフリージャズの評論やライナーって、そのほとんどが難解なものばかりのような気がします。
だから、たまには、こういった感想文があっても良いのではないでしょうか、と勝手に思っています。

ボク自身、フリージャズに興味を持った時は、様々な文献を紐解いてみたのですが、どれもこれもが難解な論評ばっかり。
まるで、“文意を汲み取れないオマエがバカなんだよ、分からなきゃ無理して読まなくてもいいんだぜ”と文章に言われているような気がして、せっかくの好奇心が萎えてしまいました(ま、実際、文章の意味を半分も理解出来ないボクがバカなのですが)。

同じような経験をお持ちの方も中にはいらっしゃるんじゃないでしょうか?

フリージャズがあいも変わらずマイナーなのは、音楽そのものの難解さよりも、“音楽を取りまく音楽以外のサムシング(たとえば評論)”の難解さと排他性ゆえに、せっかく興味を持ち始めたリスナーを遠ざけてしまっているような気がしないでもありません。

べつにフリージャズは、一部のインテリの特権的な音楽ではないし、難解な言葉を弄ぶための素材でもないと思います。
もちろん、難解な演奏が多いことは事実です。
だからといって、評論まで難解にする必要はこれっぽちも無いと思うんですがいかがなものでしょうか?
むしろ、そういう音楽こそ、平易な解説や評論が必要な気がするのですが。

フリージャズって、“インテリ=頭”で理解したり考えたりする音楽じゃなくて、もっと肉体的でプリミティブな要素だって強いんです。
人間がモロに出る生々しい音楽なんです。
このバイブレーションを感知出来るのは、言葉や知識といった“頭”の部分ではありません。むしろ、生々しさゆえに、肉に、身体にくる音楽なんじゃないかと思います。

“フリー=自由”な音楽なんだから、だからこそ、門戸はもっと広く開かれてしかるべきだと思うのです。

記:2003/10/27

album data

割れた鏡 または化石の鳥 (PSF)
- 吉沢元治

1.ワルツ・トゥ・ランチ
2.割れた鏡
3.ささやき
4.ビーンズ・ダンス
5.オブセッション No.9
6.小品
7.化石の鳥
8.しゃっくり
9.クロッシングス
10.ディスタンス

吉沢元治 (b)

1975/07/27 & 28 軽井沢高原教会

 - ジャズ