ジパング/かわぐちかいじ
2021/02/10
『ジパング』。
ピンク・レディの《ジパング》ではない。
ここでは、かわぐちかいじが『週刊モーニング』に連載中の漫画、『ジパング』だ。
かわぐちかいじの代表作・『沈黙の艦隊』も、現在連載中の『ジパング』も、「波紋」を味わい、楽しむ物語だと私は思っている。
かわぐちかいじは、『沈黙の艦隊』において「波紋」を描ききり、『ジパング』では、これからますます拡がってゆく「波紋」を描くことに果敢に挑戦しているのだ。
「波紋」といっても、『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる「波紋」のことではない。
とんでもなく強力な兵器と、我々凡人の常識と見識を遙かに超越した一人の人間が、いきなり「ポン!」と、危ういバランスで均衡のとれた現実世界に出現したことによって生じる波紋だ。
揺れるのは、世界情勢、そしてそれに翻弄される様々な人間。それぞれの人間模様と、生き様、思想、思惑。突拍子もない現実を受け入れようとする人、蓋をしようとする人、目をそむけようとする人、排除しようとする人などなど、それぞれの人物が動き始め、その結果、「世界」は大きな「波紋」を立てて揺れ動く。
この「波紋」を通して露わになる人間模様と、揺れ動く世界の姿。その様を、楽しみ、興奮し、期待し、胸ときめかせ、失望し、怒り、手に汗握るのが、我々読者というわけだ。
作家・楡周平の迷作(?)に、『ガリバー・パニック』という小説がある。
この物語の設定は、ものすごく単純だ。
ある日、九十九里浜に、身長100mの巨人が現れた。
それだけ。
とても単純だ。
ところが、単純じゃないのは、この巨人が現れたことによって生じる「波紋」だ。
自衛隊と警察が厳戒体制をとり、付近の住民とマスコミが騒ぎだし、政治家が利権を値踏みし、官僚は管轄官庁を押しつけあい、広告代理店が商売の対象として目をつけ、近所の商店は巨人を観光資源として活用しようとする。
巨人が歩けば、街の地盤の弱いところは陥没するし、巨人がウンチをすれば、それこそ何トンもの臭い物体が放出されるので、汚物処理も一大事業になってくる。
異質なものが、たった一つ「ポン!」と出現したがために、世の中は大きく揺れるし、この「揺れ」を楡周平は丹念に描くことによって、現代社会の矛盾や病理、そして人間の悲しさやおかしさをユーモラスに浮き彫りにしているのだ。
安全帽をかぶり、地下足袋を履き、作業服を着、首にピンクのタオルを巻き、「オラ、~しねぇだ」といったような方言を話す虎之助という名前の100mの巨人が嵐のあとの砂浜に出現するということが、科学的にあり得るかあり得ないかとか、そういった問題ではなく、突拍子もないものをいきなり登場させることは、あくまで、「人間」と「世界」を描くための極端なキッカケに過ぎない。
そう、100mの巨人は、水面にドボン!と投げ込まれた大きな石のようなものなのだ。
重要なのは、この石が投げ込まれた後に生じる、水面の波紋、波紋のヒダだ。この波紋を描写することによって、社会が、人間が、世間が、克明に映し出されるのだ。
『沈黙の艦隊』もまったく同じ原理だと思う。
日本とアメリカが共同開発した、圧倒的な性能を誇る原子力潜水艦「やまと」と、卓越した操艦術と、政治的センスを持ち合わせた艦長・海江田四郎。
この極端に優れたメカと、ある種神がかった人物を物語の初っぱなにポン!と出現させれば良い。
この二つが水面に投込まれる「大きな石」だ。これをドボン!と水の中に放り込む。
あとは、自動的に世界は揺れてくれる。いや、揺れざるを得ないし、この揺れ=波紋をかわぐちかいじは丹念に、時に大胆に描いた。
『ジパング』も『沈黙の艦隊』とまったく同様だ。
兵器と人間という二つの「石」が、今から60年前の、第二次世界大戦中の世界に投げ込まれる。
1942年のミッドウエイ海戦の海域に突如タイムスリップした自衛隊の最新鋭イージス艦「みらい」と、「みらい」の艦員に救助され、日本の未来を知ってしまった一人の帝国海軍の情報将校。
圧倒的な火力と、最新の電子装備を誇る2004年のイージス艦に、太平洋戦争時代の日米両軍の兵器がかなうわけがないし、日本、いや世界の未来を知ってしまい、日本の歴史を改変しようと奔走する情報将校が出現してしまった時点で、様々な波紋が生じる。
『沈黙の艦隊』の世界情勢にプラスして、今度は、歴史にまで及ぶ波紋をかわぐちかいじは描こうとしているのだ。
物語はまだ始まったばかりで、これからどういう波紋が描かれるかを期待するのが読者にとっての一番の楽しみなのだろう。
ところで、『ジパング』は、よく『戦国自衛隊』に準えて語られる。
うん、たしかにその通りだ。『戦国自衛隊』のみならず、『ファイナル・カウント・ダウン』という映画や、志茂田景樹の『長島巨人軍と自衛隊、戦国時代へ行く』(笑)といった小説など、現代の最新装備を持つ兵器が、過去の戦場へタイムスリップをしてしまうという設定の物語はいくらでもある。
じつは、私は『ジパング』の連載が始まる前から、この漫画のあらすじはある程度知っていた。
知り合いのある新聞社の人が、『ジパング』の連載開始直前に、かわぐちかいじを取材し、私に「いやぁ、まいった、まいった、こういうストーリーなんだけどさ、どういう風に紹介すればいいんだろ、紹介しようがないよなぁ」と愚痴をこぼしてきたからだ。
一通りストーリーを聞かされた私は、彼が話し終わるのと同時に「なんだ、それって『戦国自衛隊』じゃん!」と思わず叫んでしまった。
すると、彼は「でしょ?でしょ?そうなんだけどさ、連載が始まるまでは、自衛隊の艦がタイムスリップすることは伏せて欲しいっていうんだよねぇ。
やっぱり、“日本人とは!?歴史とは?”といったような、漠然とした大雑把な切り口で紹介するしかないのかなぁ」と溜息をついていた。
連載が始まるまでは、タイム・スリップネタを伏せて欲しいと箝口令を敷くかわぐちかいじ(あるいは講談社?)の気持ちは、たしかによく分かる。
だって、それを明かした途端に、読者から「なぁーんだ、結局、今度の新しい漫画は『戦国自衛隊』なのね」と読む前から思われてしまったら、それだけで分かった気分になって、新連載が掲載された号を手にとらない読者が増える恐れだってあるだろうから。
しかし、別にそれぐらいのことにナーヴァスになりすぎる必要も無いんじゃないかとも私は思う。
何故なら、かわぐちかいじは、圧倒的な画力を持っているのだから。
単純なストーリーの映画でも、映画館の大画面で、迫力のあるアクション・シーンや特撮シーンを見れば、興奮出来るのと同じ原理で、たとえ単純な設定でも、絵の迫力と描写次第では、充分に読者を圧倒し、説得出来ることだってあるのだ。
事実、私は、ストーリーを知った上で、 『ジパング』の第一話を読んだが、充分に楽しめた。
とくに、1942年のミッドウエイの海域にタイムスリップしてしまった自衛隊のイージス艦の前に突如出現する、巨大な戦艦大和の威容は、すごい迫力だった。
霧の中にぼんやりと出現する、巨大すぎるほど巨大な戦艦大和を不気味に描くかわぐちかいじの画力は大したものだし、この迫力のある大和のコマを見ただけでも、次週の続きが気になって、気になって仕方がないぐらいにまでなっていた。
単純な設定。大いに結構ではないか。
実際、『沈黙の艦隊』でも、北極海の海底で「やまと」を苦しめたアメリカ海軍の最新鋭攻撃型原潜は、実は2隻いたという単純なオチは、「実は双子でした」的な、ありがちなネタだが、これは読んだ後にしばらくして感じることで、読んでいる最中は、そのようなことを微塵も感じなかったし、緊迫した戦闘シーンの描写や、北極海中の氷塊や、原潜同士のバトルのリアルな絵を見れば、少なくとも読んでいる間は、息を飲むシーンの連続で、夢中になれるはずだ。
これは、かわぐちかいじの卓越した画力とシークエンスの畳み掛け方の技量に負うところが多いわけだから、いかに最初の設定や種が単純でも、臆せずにスケールの大きい漫画を書きつづけてさえくれれば、読者は間違いなくついてくると思うのだ。
その上、出だしの設定が単純でも、物語世界は大きく音を立てて揺れ動かざるを得ない設定でもあるので、物語が進めば進むほど、次第に複雑になってゆくに違いないことは誰にだって分かることだし。
現在の『ジパング』の物語は、まだまだ波紋が立ち始めたぐらいの段階だと思う。
未来から突然タイムスリップしてしまった「みらい」は、すでにガダルカナル島沖で「大和」を旗艦とする連合艦隊に圧倒的な火力と性能を見せつけ、米海軍の艦載機40機を撃墜し、さらには空母「ワスプ」までも撃沈してしまっている。
また、未来の世界を知ってしまった草加拓海少佐は、山本五十六に伸びきった戦線の縮小を提言し、隠居していた石原完爾の心に火をつけ、部下の津田大尉にヒトラー暗殺を命じ、自分は満州へ飛び、満州国の皇帝、溥儀の暗殺を目論んでいる。
「みらい」という未来の戦闘艦と、未来を知ってしまった軍人が出現したがために、すでに物語の中の世界は、現実の歴史とは全く違う方向へ、猛烈な勢いでの疾走をはじめている。
そして、もう元には戻れない地点にまで来てしまっている。
しかし、かわぐちかいじの描こうとしている「波紋」は、まだまだこの程度のものでは無いはずだ。
さらに物語の波紋は、ますます勢いを増して拡がってゆくだろうし、この波紋は一体どこまで拡がり、最終的に作者はどういう形で「落とし前」をつけてくれるのか。
これが一読者としての最大の関心事だ。
期待半分、不安半分というのが正直なところだが、今後も最終回まで目が離せない「気になる漫画」であり続けることは確かだと思う。
記:2002/04/11