オム/ジョン・コルトレーン
トレーンとサンダース
ジョン・コルトレーンとファラオ・サンダース。
この2人のテナーサックス奏者の資質、表現の発想の違いを明確に感じ取れる作品だ。
もちろん、ファラオは、最後期コルトレーンのコンボにおいては重要なポジションを担ったレギュラーメンバーだったので、『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』や、『ライヴ・イン・ジャパン』などのアルバムでも、彼の咆哮を味わえるのだが、ファラオの「特異性」と、コルトレーンの「オーソドックス」さを実感するには、『オム』がもっとも適しているだろう。
その大きな理由は、ピアノにマッコイ・タイナー、ドラムスにエルヴィン・ジョーンズが「まだ」在籍していたからだ。
調整と定型リズムがバックにつくことで、ファラオ・サンダースの表現が、相対的に浮き彫りにされるからだ。
フリー突入寸前で踏みとどまるマッコイとエルヴィン
呪文のような言葉が唱えられ、まるで何かの怪しい儀式のような始まり方をする『オム』は、その出だしの雰囲気からしても、なにやら胡散臭いフリージャズのイメージがぷんぷん漂う。
しかしながら、その後に始まる演奏は、かろうじて調整もリズムも保たれている。
それは、マッコイとエルヴィンの存在が大きい。
結局この二人は、コルトレーンが目指す演奏が、どんなに過激な領域に踏み込んでいこうとも、マッコイのピアノは「無調」にはならなかったし、複雑なポリリズムを展開しつつもエルヴィンのドラムは、「定型リズム」からは逸脱した滅茶苦茶なリズムにはならなかった。
もう一人のドラマー、ラシッド・アリが参加していようとも、エルヴィンがいる時点においては、演奏の基調を成すリズムフィギュアは、かろうじて4ビートの枠内に踏みとどまっていた。
つまり、かなり過激でアグレッシブなものではあるが、《オム》という曲は、いや演奏は、ぎりぎりのところでオーソドックスな4ビートが保たれているともいえ、「ビートと調整」というダムが決壊する寸前の演奏といえるだろう。
したがって、世間一般で認知されている、「フリージャズは、調整もリズムも不定形(あるいは滅茶苦茶)」という枠には当てはまらない。
だからこそ、「4ビートのモードジャズ・最後の良心」ともいえるマッコイとエルヴィンが、リズムも調整も逸脱せずに踏みとどまったリズムをバックにファラオが咆哮をすれば、彼のテナーの特異性が浮き彫りになるのだ。
前衛画家の抽象画と子どもの落書き
最初から調整などは二の次で、とにかくインパクトを最重要視しているかのようにで怪獣の如く咆哮するファラオ。
コルトレーンもファラオのような破壊的なテナーを目指し、定型を非定型に突き崩そうと果敢にサックスに息を吹き込むが、ファラオのようなぶっ飛んだ境地にまでは至っていない。
それはそうだ。
バップにモードと、ジャズの重要なイディオムを吸収し、あるいは自らが作り出し、ジャズにおける語法を積み上げてきたコルトレーンだ。
コードチェンジやハーモニーの構造に関しては、マイルスやモンクなどの一流の師の元で研鑽を積んできた男が、これまで培ってきたものをやすやすと捨てられるわけがない。
おまけに、コルトレーンは「無調」とは対極の、「調整・調整・ルールでガンジガラメ」の権化ともいえるコード激変曲《ジャイアント・ステップス》の作曲者でもあり、この曲の最良の表現者でもある。
ちなみにコードチェンジの限界を極めてからモードに移行する過程に関しては、『サンシップ』の記事にも詳しく書いています。
>>サン・シップ/ジョン・コルトレーン
これまで培い、自ら、そして自らのグループで少しずつ領域を拡張させていった経験の集積をいとも容易く放棄できるわけはない。
したがって、コルトレーンのテナーは、捨てることとは対極にある情報量追加型のアプローチにならざるを得ず、結果的にフリーめいたファラオのテナーに似ているようにも聞こえるのだろう。
両者の違いは、絵で言えば、前衛芸術家が描いた絵と子どもの落書きの違いのようなものだ。
基礎の修練を終えた画家が自己のスタイルを追求していくうちに、抽象的な作風に移行し、試行錯誤の末に描いた絵が結果的に子どもが描いた絵に似ていることと似ている。
もちろん、画家がコルトレーン、子どもがファラオ。
2人の画風が結果的に似ていたとしても、そこに至るまでの過程がまったく違うということだ。
音を増やして、混沌を増やす
この時期のコルトレーンが目論んでいたのは「足し算」ではないだろうか。
音数の追加。
メンバーの追加。
良い例が『アセンション』だ。
このアルバムは管楽器7人、全員で11人という大人数編成で録音されている。
この『オム』においては、コンパクトなコンボ編成でアセンションテイストを目指したのだろうか、それでも4人のカルテットでは人数不足と感じたのか、ドラムにラシッド・アリ、管楽器には、ファラオ・サンダースを筆頭に、ドナルド・ギャレットや、ジョー・ブラジルを「追加武装」している。
タイプが異なる楽器奏者を配することで、できるだけ少ない編成で混沌を生み出そうとしていたのかもしれない。
そして、その結果は?
まずは、ほどなくして、エルヴィンもマッコイもコルトレーン・カルテットを辞めてしまった。
ベースのジミー・ギャリソンのみ最後までコルトレーンに付き従うが、エルヴィン、マッコイという最後の「4ビートの良心」を失ったコルトレーンは、ますます過激かつ長尺演奏の領域に踏み込んでいくことになった。
では、音楽的な成果は?
これはあくまで私個人の感想だが、ノイズと不純物が混ざった『トランジション』の粋を出ていないと感じる。
だったら、最初からノイズも不純物も混ざっていない、高度に濃縮された『トランジション』を聴いたほうが良い、というのが偽らざる私の本音。
『トランジション』の無駄のないメンバー4人の力量が一点に結集する凝縮力、集中力は凄まじい。
4人という最小限の人数で沸点に到達することが出来たカルテットの機動力は並大抵ではない。
この感触を、メンバーを増やすことによってさらに高めていこうという目論みが『アセンション』であり『オム』だったのかもしれないが、『トランジション』ほどの綿密なチームワークはなく、残念ながら『アセンション』を超える沸点にまでは達していない。
無駄に冗長になったり、空すべりをしているところもあり、そのようなところも含めて私は『アセンション』などの後期コルトレーン作品は嫌いではないのだが、まあ普通の神経をしている人からしてみれば、「失敗作」ということになるのでしょう。
さらには、儀式めいた呪術的な出だしも相まって「怖い」イメージだけが増長してしまっているジャズファンも少なくないことだろう。
音楽的価値やリスナーが抱くイメージはともかく、この『オム』を聴くことによって、その前後のコルトレーンの作品の狙いや音楽的方向性が見えてくるとことは間違いない。
最後まで聴けるや否やということや、好き嫌いはともかくとして、この『オム』を聴くという行為は、「騒音・壮絶・長尺」という印象批評でしか語られることのない後期コルトレーンの音楽を、もう少し深いところで(精神論を抜きにして)なんとか音楽的に理解しようと頑張る人(そんな人、いまどきいるのかな?)の手助けになることは確かだ。
記:2017/04/27
album data
OM (Impulse)
- John Coltrane
1. OM
John Coltrane (ts,ss)
Pharoah Sanders (ts)
Donald Rafael Garrett (b,cl)
Joe Brazil (fl)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison (b)
Elvin Jones (ds)
1965/10/01
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