ウェイン・ショーターのチャコール・ブルース
2021/02/21
全容をつかみ難い理由
ウェイン・ショーターの音楽は、近くで見ると(聴くと)、その全容がつかめない場合が多い。
特にアコースティック、かつ4ビートで奏でられているときの彼のサックスが特にそうだ。
リズムセクションが4ビートを奏で、その上で管楽器がアドリブを繰り広げるという、あまりに耳慣れたフォーマットの耳慣れた表現に慣れてしまうと、ショーターの場合は、その「慣れ」から逸脱したフレーズや展開が多いがゆえに、頭の中に残る感想は「異質」の2文字で終わってしまうからだ。
少し引いた距離から、鷹揚に構えて聴いていたほうが、ショーターが意図している音楽的な色合いやカタチが理解しやすいことがある。
なぜなら、彼の場合は、長期スパンでアドリブの構成や流れを組み立てることが多いため、目先のフレーズ数音にいちいち拘泥していたら、大きなものを見失ってしまう可能性があるからだ。
たとえば、富士山は遠くから見れば山肌は青っぽいが、近くで見ると緑の木で覆われているのと同じような感じ。
あるいは、バスキアなどキャンバスに暴力的に絵の具の塊を塗りたくるタイプの画家が描いた原画。彼の絵に対してギリギリなところまで接近して鑑賞したところで絵の具の盛り上がりにしか見えなかったりもするが、数メートルほど遠ざかって全体を捉えれば、彼が描かんとしていたモノの輪郭や、独特なスペースの設け方が分かるのと同じことなのかもしれない。
『ナイト・ドリーマー』の《チャコール・ブルース》
では、引いた状態で聴くのと接近した状態で聴くと、その受け止め方に差が出ていることがわかる顕著な例は何だろう?
『ナイト・ドリーマー』に収録された《チャコール・ブルース》などはどうだろうか?
いったんブルースであることを忘れて、ショーターのテナーサックスの音色とフレーズだけを追いかけてみよう。
まるで抽象画のように感じないだろうか?
続くマッコイ・タイナーのピアノソロも同様に追いかけてみよう。
ほとんど、モード奏法で演奏するコルトレーンのバックで繰り返されるピアノと同じには聞こえないだろうか?
どこがブルースなの?いつものマッコイ流モードじゃん?となるかもしれない。
では、ベースがナビゲートする曲の進行を頭に入れながら、おおまかに演奏の「流れ」と「進行」を念頭にいれながら、意識を少しショーターから距離をとってドラムやベースも含めたトータルな音の塊の流れを意識しながら演奏を追いかけてみるとどうだろう?
まるっきりブルースではないか?!
そう、俯瞰すると、それはそれで新主流派のジャズマンたちが彼らならではの語法で奏でているブルースなのだということがわかる。
しかし、あまりにも「ショーターのテナーだけを追いかけるぞ!」と気合いを入れて顕微鏡聴きをしてしまうと、見えているものも見えなくなってしまう恐れがあるのだ。
いや、聴こえている情報を適切に処理できないため、頭の中にクエスチョンマークがいくつも並んでしまうといったほうがよいのかもしれない。
すべてのショーターの演奏を「引き聴き」する必要はないのだけれども、多くのジャズ聴きの身体に染み付いているブルース独自の「流れ」を下敷きに聴けば、改めて、ショーターのサックスはどのように従来のブルース表現から逸脱し、結果的に正しくブルースしているのかが分かると思う。
ショーター好きにジャズマニアが多く、初心者になればなるほど「ショーターは分からん」という人が増えるのは、きっと、ショーターの表現方法があまりに独特ゆえ、音楽的な狙いがいまひとつ把握しきれないところにあるからなのかもしれない。
であれば、なおさら《チャコール・ブルース》を聴いてみてはいかがだろうか。
7~8回聴いてから、別の演奏を聴いてみると、聴こえ方がガラリと変わるかもしれないから。
記:2018/04/07
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