寺島さんの番組で「パーカー論争」勃発!
こういうパーカーもなかなか良いです
チャーリー・パーカーの『アット・ストリーヴィル』。
『ナウズ・ザ・タイム』のジャケ写にも使われている写真に、妙な着色がほどこされたジャケットがB級感を漂わせているが、肝心の音源に関しては、グッド!
マイルド・パーカー。
スイート・パーカー。
録音の問題も大きいとは思うが、サヴォイやヴァーヴで聴ける、彼のアルトの音色の表面の“ザラッ!”とした成分がとれ、むしろ“ツルリ”とした触感のアルトの音色が心地よく、これはパーカーを知らない人も気持ちよく聴ける内容だと思う。
アドリブは冴えている。
お得意のパーカーフレーズが、「ここに来てほしい!」と思った場所、タイミングににキチンと来てくれる快感がある。
もっとも、音の凄みがあまり感じられないのは、マイルドな音色のお陰か。
ライブ盤で、音は必ずしも良いとはいえないが、気にならない程度の音質。
気になるレッド・ガーランドのピアノは、まるでパーカーのバックで弾いているデューク・ジョーダンやジョン・ルイスみたい。
いやはや、パーカーのバックで聴こえるピアノって、みんな同じに聴こえてしまうのは、それだけパーカーの音の存在感がスゴイからなのか。
同じライブ盤でも、たとえば、『バード・イズ・フリー』のような激しい高揚感は無いかわりに、どの演奏もゆったりと落ち着いた気分で、じっくりとパーカーと向かい合える内容だ。
しかもリラックスして。
小春日和の昼下がり、縁側に座り、緑茶と和菓子のお供に相応しいパーカー、と言って、以前ある人に薦めたことがあるが、「ホント、その通りでした」という返事が還ってきたことがある。
パーカー論争
ところで以前、ミュージックバードの「寺島靖国のPCMジャズ喫茶」にゲスト出演した際、たまたま話の流れで、寺島さん以下、ゲスト出演者の岩浪洋三さん、長澤祥さん、そして私の4人の間で「パーカー論争」に発展した。
もちろん、岩波さんと私は、「パーカー最高じゃん!」派。
寺島さんと長澤さんは「パーカー否定派」。
というよりも、我々のように、パーカーに心酔している人に対して、「ホントに良さ分かって聴いているの? 世評に乗ってイイと言っているだけなんじゃない? どこがイイと感じるのか言ってみてよ」というのが寺島さんの狙いなのだと思う。
話の流れから、たまたま私のカバンの中に入っていた『ストリー・ヴィル』をかけることになり、1曲目の《ムース・ザ・ムーチェ》をかけた。
この演奏が流れている間、オフレコで様々な議論が交わされていたのだが、長澤さんが「僕はパーカーのどこがつまらないかって、まるで人間が吹いているように聴こえないんですよ。上手過ぎるから。これじゃまるで機械が演奏しているようだ。シンセサイザー・ミュージックですよ、パーカーは」と発言。
「パーカー・シンセサイザー・ミュージック」説。これは新しい(笑)。
もちろん、私は絶対そんなことはないと思うのだが、どうなんでしょ?
気になる人は、『アット・ストリーヴィル』の1曲目、《ムース・ザ・ムーチェ》を聴いてみよう!
私が感じていること、わかってもらえるのではないかと思うのですが……。
たしかにパーカーは巧い。
しかし、アルトサックスという楽器の演奏技術のみに耳を奪われてしまい、そこから先に進めないのは、ちょっと残念というか勿体ないことだと思う。
セントニックスやストリーヴィルでのパーカーの演奏は、疾走するアルトの音色の奥に、微妙な憂いがある。
我々凡人には想像することもできない虚無の穴が、音の底にはポッカリと開いているように感じられるのは私だけ?
間違ってもこれは機械の演奏じゃないよ。
悲しみ、怒り、絶望のすべて通り越してしまい、これらの要素がスッキリ削ぎ落とされた一見ムダのない合理的かつスピード感のある演奏の中に微妙に付着する余剰物。
これはいったいなんなのだろう?
このような文学的想像力の翼を広げることは、機械で演奏された音楽では不可能なのだ。
と、私は考えるのだが、うーむ、あまりパーカー否定派の方々には、うまく伝えることが出来なかったようだ。
残念!
記:2008/07/27
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