アート・ペッパー、初期の「語り口」には、学ぶべき点が多い

   

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大事なこと、言いたいことを必要以上に声高に主張することって、あまり好きではない。

たとえば、バラエティ番組にでてくるテロップ。
あるいは、ブログなどで、一部の人が多用している色のついたデカ文字。

強調したい気持ちは分かるんだけれども、やり過ぎは品性を疑わざるをえない。そんなに強調しなくても、こっちにもそれぐらいの読解力はあるよ、と思ってしまう。

このような表現をする人は、相手の理解力を疑っているからなのか。
それとも、自分の表現力の無さをカバーするためなのか。

理想なのは、露骨な手法を用いずとも、サラリといいたいことを相手に伝え、受け手も、過不足なく発信者の意図を自然に汲み取れること。

これって簡単なようで、なかなか巧くいくものではない。だからこそ、テロップやデカ文字に陥るんだろうけど。

ジャズでいえば、露骨に甘いフレーズや、必要以上の音数、隙間をまったく生かさない音符の埋め尽くしなどが、それにあたる。

ときには、これらの手法も効果的なのかもしれないし、ライブにおいては聴衆を「おお、エキサイティングだ!」「熱演だ!」と熱狂の渦に巻き込むことも可能だ。

さらに、コルトレーンのように、「こんだけやってくれると、逆に気持ちいいぜ!」と感じさせるほどの演奏もあるので、ジャズにおいてのある種「やり過ぎ」は必ずしも否定するものではない。

しかし、アート・ペッパーの場合は、やり過ぎ、吹き過ぎ、エキサイトし過ぎは、あまり似合わないのではないかと思う。

熱情だけが先走り、演奏が長尺化してきた後期のアート・ペッパーの一部の演奏よりも、私は初期の演奏のほうにシンパシーを感じる。

彼は本来、“お喋りなサックス”なタイプではないし、声のデカい“ラウド・スピーカー”というタイプでもない。

アート・ペッパー本来の持ち味は、やはり初期にあると感じる。

短い演奏時間の中にいいたいことをすべて詰め込み、それを決して過剰な語り口には陥らずに、サラリと軽やかな語り口で、ホロリと説得してしまうのだから。

これを味わえるアルバムは数枚あるのだが、やはり『モダン・アート』がオススメだ。

これは、マイルス・デイヴィスが当時要していた「黄金のリズムセクション」と共演した『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズムセクション』と、ほぼ同時期にレコーディングされた演奏だが、煽るリズムに乗って勢いよく吹くペッパーとは打ってかわって、こちらのアルバムでは、さらりとマイペースで、言いたいことを語っている清々しさを感じる。

たとえば、このアルバムに収録されている《ビウィッチト》を聴いてみよう。

難しいこと、トリッキーなことは一切せず、さらに、必要最低限にしか曲をいじっていない。

にもかかわらず、この豊穣な表現力、あっさりとした語り口の味わい深さ。

もちろんこの時期のペッパーには、この曲に限らず、素朴でストレートな表現とは裏腹に、奥行きの深い演奏が多い。

このようなさりげない演奏にこそペッパーの高い音楽性を垣間見ることが出来るのだ。

やたらと説明くさいテレビの情報番組の解説や、テロップを駆使したり、同じフレーズを何度も繰り返して言いたいことを強調しすぎのバラエティ番組などは、ペッパーのさりげない語り口を多いに学ぶべきではないだろうか?

記:2009/04/13

追記

この、初期ペッパーの「語り口」についてだが、ペッパー独自の「息継ぎ」にも関係がありそうだ。

サックスをやっていない私からしてみれば、「さりげなく」語りかけているようにしか聴こえない。しかし、実際、アルトサックスを吹いている人からすると、アート・ペッパーの息継ぎは、かなり特殊で、真似をしようにもマネが出来ない代物なのだという。

普通にサックスのトレーニングを受けた人からしてみると、「なぜ、ここに?」「なぜ、このタイミングで?」ということが多く、これは、ペッパーの常人をあっさりと超えた肺活量にも秘密があるようだ。

つまり、吹きたい時は吹き続けることが出来、息継ぎをしたいときには息継ぎをする。

つまり、限りなく自然体で、息継ぎのことを気にすることなく吹けるだけの技量、というよりは体力の持ち主だったようなのだ。

このことは、同じサックス奏者で、何かとペッパーと比較の遡上に載せられるリー・コニッツも指摘していたことだというし、あのオーネット・コールマンもアート・ペッパーの息継ぎを参考にしたのだという。

意外にもアート・ペッパーはミュージシャンズ・ミュージシャンであったということがわかり、興味深い。

記:2015/06/16

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